「こんばんは、九条さん。偶然ですね」「はい、実はそちらのビルに用事があって来ていたんですよ。このドレスを見ていたんですか?」琢磨は青いドレスを指さすと尋ねた。「あ。は、はい。素敵なドレスだなと思って……」朱莉は頬を染めながら答えた。「確かに素敵ですね……。奥様に似合いそうですね」「いいえ。ただ見ていただけですから。それにあったとしても宝の持ち腐れになってしまいますし」「そうでしょうか? 今後必要になるかもしれませんよ?」琢磨は首を傾げ、次の瞬間息を飲んだ。朱莉があまりにも悲し気な目でワンピースを見つめていたからである。「奥様? どうされましたか? そう言えば何故こちらにいらしたんですか?」「あの……九条さん」「はい、何でしょうか?」「奥様って……私はそんなんじゃありませんので、どうか名前で呼んでいただけますか? 始めの頃のように」朱莉は悲し気に言った。「そう言えば最初は朱莉様と言っていましたね。それでは朱莉様で……」「いえ、様付で呼ばれるほどの大した人間ではありませんので、さん付けで呼んでいただけますか?」朱莉は顔を上げて九条を見た。それは真剣な眼差しだった。「分かりました。それでは朱莉さんと呼ばせていただきます」「ありがとうございます。あの……先ほどの九条さんの質問の件ですが……あの病院に母が入院しているんです」朱莉の指さした方向には巨大な病院が建っていた。「そう言えば、朱莉さんのお母様は転院してあちらの病院に移られたのですよね? それでは面会の帰りなのですね?」「はい。あの……翔さんは……どうしてますか?」「はい、副社長ならお元気にしておられますよ? 朱莉さんはもう副社長にクリスマスプレゼントのリクエストはされたのですか?」朱莉がその言葉に一瞬ビクリと肩を動かす。「もしかすると朱莉さんは副社長にリクエストされていないんですか?」琢磨は声のトーンを落とした。「あ、あの。私からリクエストなんて、そんな図々しいことは出来ませんから」「副社長から聞かれなかったのですか? リクエストの話はありましたか?」「ありません……。それに、たとえリクエストを聞かれても……その願いが叶うかどうか……」そこまで言うと朱莉はハッとなった。いくら翔の秘書だとは言え、話し過ぎてしまった。「すみません、九条さん。私、用事があるのでこ
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以
「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか
今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――**** 話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」朱莉は声を震わせた。「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」面倒臭そうに答える翔。偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。(そ、そんな……!)朱莉はその言葉に絶望した。「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。(本当に……本当に私の為なんですか……?)今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
「こんばんは、九条さん。偶然ですね」「はい、実はそちらのビルに用事があって来ていたんですよ。このドレスを見ていたんですか?」琢磨は青いドレスを指さすと尋ねた。「あ。は、はい。素敵なドレスだなと思って……」朱莉は頬を染めながら答えた。「確かに素敵ですね……。奥様に似合いそうですね」「いいえ。ただ見ていただけですから。それにあったとしても宝の持ち腐れになってしまいますし」「そうでしょうか? 今後必要になるかもしれませんよ?」琢磨は首を傾げ、次の瞬間息を飲んだ。朱莉があまりにも悲し気な目でワンピースを見つめていたからである。「奥様? どうされましたか? そう言えば何故こちらにいらしたんですか?」「あの……九条さん」「はい、何でしょうか?」「奥様って……私はそんなんじゃありませんので、どうか名前で呼んでいただけますか? 始めの頃のように」朱莉は悲し気に言った。「そう言えば最初は朱莉様と言っていましたね。それでは朱莉様で……」「いえ、様付で呼ばれるほどの大した人間ではありませんので、さん付けで呼んでいただけますか?」朱莉は顔を上げて九条を見た。それは真剣な眼差しだった。「分かりました。それでは朱莉さんと呼ばせていただきます」「ありがとうございます。あの……先ほどの九条さんの質問の件ですが……あの病院に母が入院しているんです」朱莉の指さした方向には巨大な病院が建っていた。「そう言えば、朱莉さんのお母様は転院してあちらの病院に移られたのですよね? それでは面会の帰りなのですね?」「はい。あの……翔さんは……どうしてますか?」「はい、副社長ならお元気にしておられますよ? 朱莉さんはもう副社長にクリスマスプレゼントのリクエストはされたのですか?」朱莉がその言葉に一瞬ビクリと肩を動かす。「もしかすると朱莉さんは副社長にリクエストされていないんですか?」琢磨は声のトーンを落とした。「あ、あの。私からリクエストなんて、そんな図々しいことは出来ませんから」「副社長から聞かれなかったのですか? リクエストの話はありましたか?」「ありません……。それに、たとえリクエストを聞かれても……その願いが叶うかどうか……」そこまで言うと朱莉はハッとなった。いくら翔の秘書だとは言え、話し過ぎてしまった。「すみません、九条さん。私、用事があるのでこ
「朱莉。もう鳴海さんと入籍して半年以上経つけどまだ会う事はできないのかしら?」今日も朱莉の母――洋子は面会に訪れた朱莉に尋ねた。「うん、ごめんね……。翔さんて、鳴海グループの副社長で凄く忙しい人だから、どうしても面会に来る事が出来なくて」朱莉は母の為にリンゴの皮を剥きながら俯き加減に答える。「そうなの?」「うん、だからもう少しだけ待っていてくれる」朱莉は寂しげに笑った。「え、ええ。分かったわ。ところで朱莉……」「何? お母さん」「朱莉、今……幸せに暮らしているの?」「嫌だなあ。お母さんたら。幸せに暮らしているに決まってるでしょう? はい、リンゴ剥いたから食べて?」朱莉は笑顔でに皿に乗せたリンゴを手渡した。「ありがとう、朱莉」「お礼はいいから早く食べてみて? すごく美味しいんだから。翔さんがお母さんにって買ってきてくれたんだから?」「そうよね……。いつもありがとうございますってお礼伝えておいてね?」洋子は弱々しい笑顔で朱莉に言った。「うん、勿論。ちゃんと伝えておくね」洋子は一緒にリンゴを食べている娘の横顔をじっと見つめながら思った。朱莉は幸せに暮らしているのだろうか? とても今の様子を見る限りは幸せに暮らしているとは到底思えなかった。むしろ缶詰工場で働いて1人暮らしをしていた時の方が、生き生きとして見える。(朱莉は誰にも相談できない様な重大な辛い秘密を抱えているのかもしれないわ……)しかし、とてもそれを確認することは出来なかった。何故なら少しでも朱莉に鳴海翔のことを尋ねようとすれば悲し気な顔を見せるのでとても聞きだす気にはなれなかったのだ。2人の結婚生活については、この話が出た時からずっと疑問に思っていた。(朱莉……もしかして貴女……私の為に鳴海家に身売りしたの……?)しかし、朱莉に尋ねることが出来なかった――「それじゃ、また明日来るね。お母さん」「ねえ、朱莉。何も毎日面会に来なくてもいいのよ? 大変じゃない?」朱莉が部屋を出ようとした時、洋子は声をかけた。「ううん。そんなこと無いよ。毎日お母さんの顔見ないと安心出来無いから。それじゃまた明日ね」笑顔で手を振ると、朱莉は病室を後にした。****「ふう……。今日もまたお母さんに嘘をついちゃったな」イルミネーションが美しい町中を歩きながら朱莉は溜息をついた。朱莉
「どうした? 琢磨?」「翔! お前、本気でそんなこと言ってるのか? 尋ねる相手と言ったら朱莉さんに決まっているだろう!?」「あ……ああ。そうか……朱莉さんか……。頼む、琢磨。お前から朱莉さんに聞いて貰えるか? 彼女にプレゼントしたいからと言ってさ」「翔! 俺には今付き合ってる彼女はいないぞ?」琢磨は睨みつけた。「そんなのは勿論分かってるさ。ただ……」「何だよ? 今まで黙っていたけど……お前、朱莉さんとは連絡どうしてるんだ?」琢磨の射抜くような視線に翔は溜息をついた。「実は初めて明日香をカウンセラーに見て貰った時に言われたんだ。明日香を少しでも安心させるように、当分の間朱莉さんとは連絡を一切取らないようにって。そのことは最初に言われた時に、朱莉さんには説明したよ。悪いけど、暫く連絡を取ることは出来ないって。まあ、今のところ親族との顔合わせも予定していないし会長も結局年内には帰国できないことが決まったしな。朱莉さんも俺達と関わらない方が気楽だろうから、いいだろう」「何だって? そんな話は初耳だぞ? 明日香ちゃんには内緒でもう一度カウンセラーに相談してみろよ。あれから3カ月は経過している。?もうすぐクリスマスなんだし、このままにしておいていいはずはないだろう?」「……」「何故そこで黙るんだよ?」「いや……一応ボーナスの上乗せは考えているんだが……それだけではまずいだろうか?」翔の言い分に琢磨は唖然とした。「本気で言ってるのか? お前と明日香ちゃんはこれから2人だけのクリスマスのイベントが結構入っているじゃないか? それなのに朱莉さんは? 偽装妻であることがバレないように極力親しい人達との連絡も取らないようにって最初に結んだ契約書の中にあったよなあ? 朱莉さんだけ寂しい思いをさせて、自分たちはクリスマスを楽しむつもりか?」「琢磨……」(琢磨の言う事は尤もだ。朱莉さんとは書類上とは言え、正式な妻であるには変わりない。だが、明日香の嫉妬から守る為に放置してきたのは良く無いかもしれない。俺としては暫く朱莉さんとの連絡を絶つことが、彼女にとっても最良の方法かと思っていたのだが……)「分かったよ、琢磨。明日にでもカウンセラーの女性に朱莉さんと連絡を取り合ってもいいか確認してみる」「ああ、是非そうしろ」琢磨は残りのコーヒーを一気に飲み干した。「
季節が移り変わり、いつの間にか12月になっていた。休憩時間、オフィスの窓から翔と琢磨は外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。「世間はもうクリスマス一色だな」琢磨は翔を見ながら話しかけた。「ああ…本当に早いものだな…」翔は窓の外をじっと見つめながら何か考えごとをしているように見える。「どうした? 翔。何考えているんだ?」琢磨は翔の様子に気付き、声をかけた。「あ、ああ……。実は明日香からクリスマスプレゼントは今年は俺が選んでくれって言ってきて困っているんだ。20代の女性が好むプレゼントって言うのが俺には良く分からなくてな……」「へえ~。いつもなら毎年明日香ちゃんが自分の方からリクエストしてくるのに随分変わったな? これもカウンセラーのお陰じゃないか?」「ああ……。そうかもな。琢磨、ありがとう。お前のアドバイスのお陰だよ。あのまま何もしないで放っておけば今頃明日香はどうなっていたか分からないよ。それにカウンセラーのお陰で、明日香は家政婦も受け入れてくれたしな」翔は笑顔で言った。今、明日香と翔の元には月曜~金曜日まで家政婦協会からベテラン家政婦が派遣されて来ている。その人物もカウンセラーからアドバイスを受けて、条件にかなった人物を探し出し、専属の家政婦をやって貰っているのだ。家政婦として雇った相手は60代の女性で、若い頃は秘書として働いていた。きめ細やかな所まで行き届くように世話をしてくれる素晴らしい家政婦であった。カウンセラーと家政婦のお陰で翔の負担はあの頃とは比べ物にならない位に楽になった。カウンセラーと家政婦には当然翔と明日香の関係を……そして朱莉と言う偽装妻の存在も打ち明けていた。その際、絶対に誰にも口外しないことを条件に告白していた。そのことをカウンセラーと家政婦に伝えた所、自分たちをあまり見くびらないでくれと叱責されたほどであったのだ。「琢磨。本当に感謝している。お前がいなければ、今頃どうなっていたか分からないよ」すると琢磨が肩をすくめる。「あのな、俺は別に明日香ちゃんの為だけを思ってアドバイスをしたわけじゃないぞ? お前のことや、それに朱莉さんのことを心配して言ったんだからな?」「ああ。勿論分かってるさ」苦笑する翔。「あ、そう言えばさっき明日香ちゃんへのプレゼント何がいいか考えていたよな?」「ああ。そうだ」
「ふう……。今回は父のお陰で助かったな……。いや、そんな言い方をしては駄目か」翔は口元に笑みを浮かべると考えた。(それにしてもおかしい。妙にタイミングが良すぎだ。偶然だろうか……?)「まさか……な。だが……何かおかしい」翔は念のために琢磨に電話を入れた。何回かの呼び出し音の後、琢磨が電話に出た。『もしもし。どうした翔?』「こんな時間に悪い。実は先程会長から電話が入ったんだ。マレーシア支社でトラブルがあったとかで、そっちに向かわなくてはならなくなったと。だから今回の会長の帰国は取りやめになった」『ああ、そうか』「そうかって……やけにお前、あっさりしてるな? もっと驚くかと思ったが」『そうか? でも予定が変わるのは別におかしな話じゃない。いつものことだろう?』「いや、いつもと違って妙な感じがある。……琢磨、正直に答えてくれ。お前……何かしただろう?」『何かって……何をだ?』「おい、とぼけるな。お前……父に何か話をしたんじゃないのか?」しかし、中々返事が無い。「琢磨、黙っていないで答えろ』『分かったよ……。そこまで気付いているなら話すよ。実は社長に明日香ちゃんのこと……伝えたんだよ』「! おまえなあ……! 何か余計なこと話したりしていないよな?」『ああ、安心しろ。明日香ちゃんがお前と一緒に暮らしてるなんてこと、口が裂けても話していない』「それじゃ……何て言ったんだ?」『最近、明日香ちゃんが精神面で弱っている。この状況で会長と会った時、明日香ちゃんがどうなるか心配だって相談したんだ。言っておくが俺がこの話をしたのは明日香ちゃんの為じゃない。お前と朱莉さんを心配してのことだからな?』「俺と朱莉さんの為……?」『そうだ。朱莉さんの件からずっと明日香ちゃんの精神状態がおかしくなったのは確かだ。だが、それは朱莉さんには何の落ち度もない。むしろ彼女は俺達の計画に巻き込んでしまった哀れな被害者だ。それに翔、お前はある意味自業自得ではあるが……ここまで明日香ちゃんの精神状態がおかしくなるとは思わなかったんだろう?』「ああ……」偽装結婚の話は明日香と何度も話し合って、互いが納得して決めた事であったはず。なのに朱莉という書類上だけの仮の妻が現れた途端、明日香はおかしくなってしまった。いや、正確に言えば朱莉の美貌を目の当たりにした途端、明日香が
翌朝――オフィスで琢磨は翔からの電話を受けていた。「ああ、大丈夫だ。こっちのことは心配するな。……何言ってるんだ。そんな事は今更だろう? ……うん。急ぎの案件はこちらで処理して、後でメールするから安心しろ。なあ、翔……。これは俺からの提案なんだが……。え? ああ……そうか。悪かったな。それじゃ電話切るぞ。じゃあな」ピッ琢磨は翔からの電話を切ると溜息をついた。「翔……。俺は明日香ちゃんよりも……お前の身体の方が心配になってくるよ……」(何とか翔の負担を少しでも減らしてやらないと……)琢磨はPCのメールを立ちあげると、メッセージを打ち始めた――****「ああ~。やっぱり家はいいわねえ……」明日香は伸びをしながらリビングのソファに座った。「明日香。今日は家でおとなしくしているんだぞ?」荷物を持って後から部屋へ入って来た翔は明日香に声をかけた。「はいはい、分かってるわよ」明日香は背もたれによりかかりながら返事をした。その時翔が着替えを持ってバスルームへ行こうとしているのに気が付き、声をかけた。「あら? 翔。シャワー浴びるの?」「あ、ああ……。結局昨夜はそのまま着替えもせずに寝てしまったからな」「あら? 私のせいだと言いたいのかしら?」明日香はジロリと翔を睨む。「何故そう思うんだ?」「だって今貴方がシャワーを浴びるってことは、私がこの部屋に昨夜帰らせずに着替えを取りに戻れなかったからと言いたいんでしょう?」「別に俺は何も言っていないぞ?」翔は明日香の隣に座るった。「だいたいねえ……。私が入院になったって聞いた段階で、一緒に病院に泊ろうって考えるのが筋じゃないの? 最初からそう考えていれば、自分の着替えを持って来ようと言う考えに至ると思わない?」「あ……」翔は唖然としてしまった。まさか明日香がそこまで考えていた等想像もつかなかった。「そうだよな……言われてみればそのとおりだった。お前が入院したなら、付き添い位考えれば良かったな。明日香。俺の考えが至らなくてすまなかった」明日香の頭を自分の肩に抱き寄せる翔。「いいのよ……。分かってくれれば。だから、翔。お願い……絶対に私を1人にさせないでよ?」明日香は翔の胸に顔を埋めると懇願する。「ああ、分かってるよ。明日香……お前を決して1人にはしない……」(今の明日香はあの時と
「いえ、私は別にお金の為では無く……」口にしかけたが、明日香にぴしゃりと言われた。「貴女ねえ……こういう場合はしのごの言わずに黙って受け取るのよ。何? それともお金以外に何か下心でもあったのかしら?」「おい、明日香!」翔は咎めようとしたが、明日香が憎悪の込めた目で朱莉を見つめていたので、何も言うことが出来なかった。(駄目だ。俺が朱莉さんを庇い建てするとますます彼女の立場が不利になってしまう)「あ、明日香さん……。謝礼金……ありがたく受け取らせていただきます」朱莉は消え入りそうな声で明日香に礼を述べた。「そうそう、最初から素直にお金を受けとると言ってれば良かったのよ」「はい、それでは私は今夜はここで失礼します」朱莉は頭を下げて部屋を出て行こうとした。「俺が車で送るよ」翔がそう言った時、突如として明日香がジロリと翔を睨み付けた。「何ですって? 朱莉さんを送るって言ったのかしら?」「あ、ああ……。車で病院迄来ているから。彼女を自宅まで送れば、俺も着替えを持って来れるだろう?」すると明日香が目に涙を浮かべる。「酷い……翔……」「え? どうしたんだ? 明日香」「こっちは自宅で意識を無くして病院に運ばれて入院したって言うのに……翔はそんな私を放って朱莉さんを自宅まで送るって言うの!?」「い、いや……。でも、ほら……大分外も薄暗くなってきているし……」「薄暗いって言ったってまだ7時にもならないでしょう!? 子供じゃないんだから朱莉さんは1人で帰れるわよっ! ねえ……心細いのよ、翔。何処にも行かないでよ!」明日香は翔に縋りついてきた。「明日香……」明日香の髪を撫でながら朱莉を見た。「あの、私の事なら大丈夫です。1人で帰れますので、どうか気になさらないで下さい。それでは明日香さん、どうぞお大事にして下さい」朱莉は頭を下げると、翔の返事も聞かずに足早に部屋を立ち去って行った。(朱莉さん……)翔の脳裏には先程朱莉が見せた悲し気な顔がいつまでも残っていた――****朱莉は美しい光に照らし出されたビル群の間を口を結んで黙って歩いていた。電車に乗っている時も下唇を噛み締めていた。億ションに向かって歩いている時は数学の公式を頭の中で唱えていた。そして、エレベーターに乗り込み、自宅の部屋の鍵を開けて室内へ入ってから、初めて朱莉はきつく
翔は自宅から入院に必要な荷物や保険証を用意すると、すぐに朱莉から教えて貰った明日香の入院先の病院へと向かった。病院に到着したのは午後6時過ぎ。翔は急いで明日香が入院しているナースステーションへ向かうと面会手続きを済ませ、明日香が入院している701号室へと向かった。701号室はこの病院の特別室となっていた。「朱莉さん!」701号室の廊下に置かれたパイプ椅子に朱莉が座って通信教育の勉強をしている姿が目に飛び込んできた。「あ、翔さん。お待ちしておりました」朱莉は立ち上がると会釈する。「朱莉さん。今日は本当にありがとう。貴女のお陰で明日香が大ごとにならずに済んだよ。本当に感謝している」「いえ、私は明日香さんからメッセージを貰って、それで倒れている明日香さんを発見して救急車を呼んだだけですから」「それで、何故廊下にいるんだい? 中へは……」そこまで言いかけて翔は言葉を飲み込んだ。ひょっとすると朱莉自身が病室に入るのを拒んでいるのか、それとも明日香に拒絶されたか……。どちらかなのだろう。「それでは、翔さんもいらしたことですし、私は失礼しますね」朱莉は立ち上がるとテキストをカバンにしまって立ち上がった。「ま、待ってくれ。朱莉さん! 明日香はもう目が覚めてるのか?」「はい。看護師さんの話では1時間ほど前に意識を取り戻したそうですよ?」「なら一緒に中へ入ろう! 明日香に礼を言わせるから!」「え? で、でもあの……」朱莉は動揺しているが、翔は思った。(何。明日香は朱莉さんに自ら助けを求めたんだ。今なら2人は少し歩み寄れるチャンスかもしれない)「さあ、一緒に病室へ入ろう」翔は朱莉の右手首を掴むと明日香の病室のドアを開けた。「明日香! もう具合が良くなったんだってな?」翔は笑顔で明日香の病室へと入って行く。「翔! 遅かったじゃない! って朱莉さん! 貴女……翔と何やってるのよ!」明日香の鋭い声が朱莉に向かって飛んでくる。「す、すみません」朱莉がビクリとなって翔に掴まれ散る右手を引こうとした。その時になって翔は自分が朱莉の手首を握りしめていたことに気が付いた。(まずい!)翔は慌てて朱莉の手首を離した。「違う!明日香、今のは誤解だ。俺が勝手に朱莉さんの手首を掴んでいたんだ」そして慌てて明日香に近付く。「明日香。朱莉さんに礼は伝えた
17時――無事に商談を終えた琢磨と翔はオフィスで珈琲を飲んでいた。すると、突然琢磨のスマホに着信が入った。琢磨はその着信相手を見て怪訝そうに首をひねる。「え……? 朱莉さんからだ……?」「朱莉さんからメッセージが入ったのか?」翔は珈琲をデスクに置いた。「あ、ああ。なんだろう? まさか明日香ちゃんが朱莉さんの部屋へ行ったのか?」「琢磨、早くメッセージの内容を教えてくれ!」翔がせっつく。「分かった」琢磨はスマホをタップしてメッセージを開いた。『お忙しいところ、申し訳ございません。実は明日香さんから突然<たすけて>とメッセージが入って来たので、お部屋に伺った所、倒れている姿を発見いたしました。呼びかけても反応が無く、すぐに救急車を呼びました。今は六本木の総合病院に運ばれて眠っております。病名は、<過換気症候群>でしたが命に別状はありませでした。ただ、念の為に本日は入院をするように先生から言われております。申し訳ございませんが、お手すきの時にお電話いただけないでしょうか?』琢磨と翔は2人でメッセージを読み、息を飲んだ。「明日香……!」翔の顔色が変わる。「おい、翔。過換気症候群て、いわゆる過呼吸っていうやつだろう? 今までにも同じ症状を起こした事はあるのか?」「分からない……。少なくとも、俺と2人きりの時はそんな症状を起こしたことは無かった」「すまない翔。多分、明日香ちゃんが過呼吸を起こしたのは俺のせいだ。お前朱莉さんに直接連絡入れろ。そしてすぐに病院へ行けよ。何、もう今日の重要な仕事は終わったんだ。早く明日香ちゃんの所へ行ってやれ。あまり朱莉さんに負担をかける訳にはいかないからな」「ああ、分かったよ」翔はその後、すぐに朱莉のスマホに直接電話をかけた。2人は暫く電話で会話のやり取りをしているのを琢磨は自分のデスクで仕事をしながら、時々様子を伺っていた。(それにしてもあのプライドの高い明日香ちゃんが朱莉さんに助けを求めるなんて……余程苦しかったのだろうな。だけど、これをきっかけに少しでも明日香ちゃんの朱莉さんに対する心情が変化して、歩み寄ってくれれば……)しかし、そこまで考えて琢磨は首を振った。一瞬でも馬鹿な考えを持ってしまったと思った。例え、明日香の心情に少し変化が現れたとしても今まで明日香に散々嫌な目に遭わされてきた朱莉に取っ